2026 哲学的思考事始め #1-2
哲学事始 2026:
#1-2 「諸行無常」はバグか、それとも仕様か?
iPhoneのアップデートと平家物語
2026年の幕開け。初詣の行列でスマホをいじりながら、「ああ、去年買ったばかりのこの機種、もう旧型か…」とため息をついた人も多いはず。iPhone 17に乗り換えるべきか、これこそ現代版「諸行無常」の最も手触り感のある瞬間ではないだろうか。もし鎌倉時代にヒットチャートがあったなら、堂々1位は『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声…」。あれは単なるポエムではなく、宇宙の「基本OS(オペレーティング・システム)」のリリースノートに聞こえる。にわか哲学者目線で言えば、諸行無常は「万物は流転する(パンタ・レイ)」と説いたヘラクレイトス思想と共鳴しているはずだが、日本の無常観はもっと「ウェット」で「切ない」。エンジニア的比喩を使うなら「この世界は常にデータが上書きされ続けるストレージ」であり、そして多くの人の仕事もまた、このストレージに日々追記し続けるプロセスなのだ。
「私」という名のテセウスの船
ここでちょっと哲学スパイスを投入。「テセウスの船」というパラドックスをご存じだろうか。これは、もっともらしい前提や筋の通った論理から、どうにも腑に落ちない結論が導き出されるという、頭の中が「?」でいっぱいになる現象のこと。「逆説」「逆理」「背理」とも呼ばれる。ボロボロになった船の部品を一つずつ新品に替えていき、最後には全パーツ総入れ替え。それでもそれは「元の船」と言えるのか?というシンプルで厄介な問いだ。
私の体も同じで、細胞はせっせと日替わり営業中。数年経てば、去年の「私」を構成していた分子たちはほぼ全員退職済みである。
「諸行無常」を受け入れると、「不変の私」なんて設定は完全なるフィクション。つまり、昨日失敗して上司に雷を落とされた「私」と、今コーヒーをすすっている「私」は、厳密に言えば別キャラなのだ。(おお、哲学って意外と価値ありだ)
結論的に言うと。「無常」とは、過去の黒歴史からログアウトし、毎秒ニューゲームでログインし直せるという、究極のリセットボタンなのである。
「虚無」を「自由」に変換するアルゴリズム
「どうせ全部消えるなら意味ないじゃん?」と思うのは、哲学ビギナーあるある。2026年の私はきっと、その一歩先を目指します。諸行無常を「仕様です!」と割り切ることは、いわば「執着という無駄なメモリ使用率」を劇的に削減する最適化パッチの適用です。
すべてがストリームのように流れるからこそ、今この一瞬の「輝き」が網膜にフラッシュ保存される…これがいわゆる「もののあはれ」。絶景を見て御来光を眺める4K超高精細の映像も、一瞬でバッファから消え、一時的に網膜キャッシュに残り、心のアーカイブに収まるからこそレア価値があるんです。哲学とは、この「消えるファイル」に自分だけの「意味」というタグをどう付けるかのタグ付けバトル…つまり自分VS自分のデバッグ作業なのです。
1. 2026年、私たちは「変化のプロ」にならざるを得ない
2026年の今私たちが立っているこの場所は、この場所のほかもちろん世界の各場所はかつてないほど足場が揺らいでいます。テクノロジーの進化、社会構造の変容、地政学的な変化そして価値観の多様化。昨日までの「正解」が、今日は「システムエラー」になっているような時代です。
私が「諸行無常」という言葉に奮起されたのは、極めて鋭い直感だと自負しています。「諸行無常」とは、単に「寂しいね、虚しいね」という感傷ではありません。これは、「この世のすべての事象は、一定の状態に留まることはない」という宇宙の物理法則原理、いわば「世界の基本仕様」を指す言葉です。
現代風に今、解釈すれば、「世界は静止画ではなく、超高解像度の動画である」ということでしょう。
私(たち)が苦しむのは、動画の中の一瞬を切り取って「これが永遠に続くはずだ」の静止画として保存しようとするからです。その切り取った画像はの外の画像とは違う可能性がある。静止画の写真は「現実のすべて」を映しているのではなく、作り手によって「ある枠(フレーム)」で切り取られたものに過ぎない。フレームの外側には、画像に映っているものとは正反対の現実や、全く異なる背景が広がっている可能性がある。例として、「泣いている子供のアップ(悲惨な状況に見える)」が、実は「大好きな親に抱きつこうとしている瞬間の一部(幸せな状況)」を切り取ったものである、といった例があります。フェークではないが真実をゆがめている。
哲学のスタートラインは、この「保存ボタン」を捨て、ストリーミング再生される現実に身を任せる覚悟を決めることにあり、3現主義に行き着きそうだ、と結論を急いでいる、急がないことの訓練になっていない。
2. ヘラクレイトスと鴨長明の「川」のダイナミクス
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「同じ川に二度入ることはできない」と述べました。川の水は常に流れ去り、次に流れてくる水は別物だからです。同じように、日本の鴨長明も『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と表現しました。
ここで少し専門的かな、「実体(サブスタンス)」という概念を導入します。西洋哲学の多くは「変化しない本質(実体)」を探求しましたが、諸行無常の思想は「実体はなく、あるのはプロセスだけだ」と断じます。いずれにせよ、自らの思想や理論を曲げない姿勢には敬服します。一に忖度、二に忖度、三も忖度の私は、まだまだ「何をか言わんや」という存在です。
具体例を挙げましょう。あなたの「仕事」、それを「〇〇業界の社員」という固定された実体だと思っていませんか?しかし哲学的に見れば、それは日々のメール、会議、思考、決断といった「一連の流れ(プロセス)」の積み重ねに過ぎません。会社という建物も、登記簿という書類も、時の経過とともに摩耗し、書き換えられます。「私は〇〇である」という固定観念を捨て、「私は今、〇〇というプロセスの中で生きている」と考える。これこそが、諸行無常を哲学的に乗りこなす第一歩です。
3. 「執着」という名のメモリリーク
なぜ私たちは無常の世界で苦しむのでしょうか。それは脳内で「執着」という名のバックグラウンドアプリが暴走し、メモリを食い尽くしているからです。仏教哲学では、苦しみの原因を「渇愛(かつあい)」と呼び、喉が渇いた人が水を求めるように、変化するものにしがみつく心を指します。たとえば恋愛。相手が自分を好きでいてくれるという「状態」を固定しようとすれば、相手の心が変わる恐怖に怯えることになります。でも、相手の心も自分の心も、諸行無常の法則下にある「流体」だと理解できれば、その一瞬の重なりを奇跡として味わうことができます。
ストア派の哲学者エピクテトスは「自分にコントロールできることと、できないことを区別せよ」と言いました。諸行無常はコントロールできませんが、それに対する自分の「評価」はコントロールできます。2026年の哲学元年に必要なのは、この「評価のアルゴリズム」を書き換えることなのです。
では#2「哲学事始め for 2026」でお会いしましょう。
